姉的視点の義兄妹 その5
悩むのは柄じゃない。歳の割にはなかなか伸びない身長に腕を組んで不機嫌に執務椅子の背もたれを軋ませた事はあったけれど。その案件も、今は無事に解決に向かっている。エイミィの背を超えた時は密かに安堵したものだ。
悩むのと考えるのとは、似ているようで実は違う。
悩みとは、すでに答えが出ている事柄について思考を巡らせる無駄な行為を指す。
考えるとは、答えを求めて思慮する作業だ。
となれば。この件は考えるという事になるのだろうか。
一睡もできずに休日の朝を迎えたクロノは、引っ掛けていたシーツを剥ぎ取って身を起こす。睡魔は皆無に等しい。寝返りを殆ど打たなかった所為か、腰が軋む。
カーテンを開ける。まだ夜が開けて間もないのか、白い空には星と月が微かに残っている。この分なら、今日は一日晴天だろうか。絶好の布団干し日である。
シャワーでも浴びるかと考えるが、何故か気が進まない。持ち帰って来た簡単なデスクワークを済ませるという選択肢も候補に上るが、尚更気が進まない。欠伸も出て来ないので寝直すのは論外。余計に疲れそうだ。
じっとしている気には、とてもなれそうにない。
「……走るか」
そうと決まれば後は早い。濃紺色のシャツに袖を通して丈夫な上に通気性も良いカーゴパンツに足を突っ込み、ポケットには待機形態の氷結の杖と家の鍵を捻じ込む。小銭入れも忍ばせた。
気配と足音を殺して廊下に出て。途中でフェイトの部屋を覗く。自分とは違って健やかな睡眠を摂っている義妹とその懐で身体を丸めている使い魔を確認して、クロノはマンションを出た。
買うだけ買って一度も履いていなかったスポーツシューズでのロードワークには不安もあったが、殊の外すぐに馴染んだ。時々爪先で地面を弾いて調子を確かめつつ、朝の街を北上する。目指すのは、この街では桜台と呼ばれている小高い丘陵だ。そこに今でもなのはが早朝訓練に使っている場所がある。ロードワークはそこと自宅までの往復だ。桜台で極々小さな結界を作れば自己鍛錬もできる。
ずっとデスクワーク続きだったのだ。絡まった糸のような思考から自分を遠ざけるにも、身体を動かすのは良い。
その後、ちゃんと考えるべきだろう。エイミィと、フェイトの事を。
途中で何度か足を止めて軽い柔軟体操をしながら、風を切る。一定のリズムを刻む呼吸は心地良く、首筋を伝ってシャツに滲み込む汗は不思議と心地良かった。
緩やかな坂が増え始める。わざと迂回して、鈍っている足腰に負荷をかけた。無理の出ない按配で適度なブレーキをかけながら、最も近い頂を目指す。
周囲から住宅が消え始めて、代わって緑が増えてゆく。アスファルトで舗装された道が途絶え、登山道へ続く階段に出くわした。ここからは一気に駆け上がる。無酸素運動に切り替えて身体の内側にも負荷をかけるように仕向けた。
汗が頬を伝う。タオルを持って来れば良かったと後悔した。
その時、不意に声がかかる。
「あれ?」
足が止まる。止めていた呼吸が動き出す。萎縮していた肺が大量の酸素を吸い込んで一気に膨らんだ。
背の低い植木で作られた山頂へ続く山道。緩いカーブを描いているその先に視線を這わせると、顔見知りを見つけた。
身形は自分とそう変わらない。ラフなTシャツに動き易そうな蜜柑色のホットパンツ。昇り始めた朝日が樹木の隙間から射し込んで、綺麗に鍛えられた細身の身体のラインをくっきりと浮かび上がらせる。さらに長い黒髪を邪魔にならないように後頭部で結い上げられている所為か、その全身からシャープな印象を受ける。肩から竹刀袋を提げていたので、その感想はより強固なものになる。
お互いに顔見知りというほどでもない。さりとて、決して知らない仲でもない。
「珍しいなぁ。クロノ君じゃない、おはよう」
「高町……美由希、さん?」
高町なのはの姉で、エイミィとは何時の間にか友達になっていた少女剣士が、やほーと手を振っていた。
☆
ロードワークのコースに、時々ここを入れるらしい。
「時々というのは?」
「ん〜まぁ特に深い意味は無いんだけど。いつも同じコースじゃ飽きちゃうから。クロノ君は、今日はどうしたの? いつもここ走ってる訳じゃないよね」
見かけた事無いし、と美由希。道幅がそれなりにあったので、並走するには支障も無かった。
「今日は休みなので。気が向いたんです」
「お休みかぁ。エイミィもそうだけど、同い年ぐらいの子がバリバリ働いてるって、何か違和感あるなぁ。アルバイトとかそういうじゃないし」
自分が五歳六歳の頃から士官学校で猛勉強していたと知れば、美由希はどんな反応をするだろう。
能力があるのなら時空管理局は門を開く。年齢は実に些細な問題である。なのは達のような歳であれだけの魔法技術を運用している例は非常に稀なので、彼女達を軸に考えられては困るのだが。
「なのはやフェイトちゃんぐらいの子供でも働けるのって、こっちだとちょっと信じられないっていうか何というか」
「まぁ、そうでしょうね。局内でも問題視する声はあります」
人材不足という大義名分を振り翳し、善悪の区別の付かない子供を戦場へ放り込む偽善組織──というのは、過激な行動理念で知られているミッドチルダ有数の人権擁護団体の言い分である。誇張表現と誤った認識で固められているが、倫理面でも道徳面でも、彼らの主張の一部は正論だ。クロノは、そう意識した事は一度も無かったが、自分を管理局が生み出した社会秩序の犠牲者であるという捕らえ方もできるのだ。
「だから、僕個人の意見としては、なのはやフェイト達には、できれば普通の暮らしをして欲しいと今でも思っています」
「……うん。それは私も一緒かな」
湿気を帯びた土を蹴る。目指す先の頂は、すぐそこだ。
なのは達の秘密の練習場は、頂上からこの丘陵の裏側へ回った辺りにある。ベンチや自動販売機等休憩が取れる設備が一通り揃っているが、見晴らしがあまり宜しくない関係か、他よりも展望場より人気が無い。人目を気にせずに訓練するには、確かにうってつけだ。
「お父さんが時々翠屋どうするかなぁって、ぼやいてるよ」
「……なのはの局入りについては」
「その話なら、もう終わってるでしょ? これはあの子達が自分で決めた事。だから私やお父さん達も何も言わなかったし、クロノ君もそう。ほら、頂上まで競争ー!」
勝手に切り出した高町美由希は、驚くクロノをさも当然のように無視してラストスパートをかける。素早い。さらに無駄も無い。細くも華奢ではない二本の脚は、少女のそれとは思えない速度で坂を駆け上ってゆく。
遠ざかる背中を、クロノは慌てて追う。すぐに追い付けるかと思ったが、速い。そう認識を改めた瞬間、彼女は森林のトンネルの先に消える。強い光が視界を焼き、クロノは眼を細めて、踏み固められた登山道から芝生へ足を踏み入れた。
何度目かになる桜台の頂。場所は違えど花見をしたのもここだ。
ひしめく住宅街と。その先に広がる小さな摩天楼。その向こう側には、大海原。臨海地方都市『海鳴』は、海と山に挟まれた落ち着いた街だ。
ここに来る度に、それは痛感する。朝日が水平線を金色で縁取って、眠りから醒めない都市を暖めている今の時間は、特にそう思う。
そこは展望場だ。それも名前ばかりで、樹木を切り倒して土地を作り、芝生を植えて整備し、休憩のできる最低限の設備を設えた空間である。ピクニックのゴール地点のような所だ。
「クロノ君ってさ、剣術できる?」
ベンチに竹刀袋を置いて、美由希が中身を取り出す。現れたのは、二本の木刀。それも、微妙な長さだ。
フェイトから聞いている。刃渡り六○センチ前後の小太刀と呼ばれるタイプの木製の模造刀だ。
その二本を、美由希は熟練した動作で構える。ロードワークで流れた汗は拭かれず。さりとて、最後の疾走で乱れているだろう呼吸は健やかそのものだった。
「剣術は知識でしか知りませんが、接近戦なら何とかこなせます」
「何とかってねぇ。フェイトちゃんもそんな事言ってて、とんでもない動きしてたんだけどなぁ」
「あの子はまだまだです。攻撃に傾倒する癖は随分改善されていますが、魔力に依存せずに戦う術を身に付けないと。執務官を目指すなら尚更です」
「お兄ちゃんが厳しいのは、どこの家庭でも一緒か。じゃ、そのお兄ちゃんの接近戦、ちょっと見せてもらえない?」
「……あの、僕は見ての通り、手ぶらなんですが」
相手は女性で戦闘魔導師ではないただの民間人だ、と言うつもりはクロノには無い。古武術を学んでいるこの女性がかなりの腕前だとは聞いているし、身体の動き一つ見ればそれとなく想像はつく。
二本の木刀で武装したそういう人間を、徒手空拳で迎え撃てというのは少々酷ではないだろうか。
「あれ? なのはやフェイトちゃんみたいに持ってないの? 宝石が杖とか斧になるあれ」
──つまり、デバイスを起動させてその木刀で打ち合いをしろという訳だ。
「あるにはありますが」
「む〜。出し惜しみ?」
「いや、そうじゃなくてですね。強度的に美由希さんの方は大丈夫なのかなと」
他にも、喩え管理局局員の身内であっても、高町美由希自身が民間人だという問題もある。訓練だろうと何だろうと、デバイスを向けるのは執務官として非常に気が引ける。
美由希は納得したようにくるりと木刀を肩に担いで、快活に笑った。
「大丈夫なんじゃないかな。木刀の破壊力は真剣と殆ど変わらないんだよ? これでもし折れちゃったりしたら、それは私が未熟な所為。だから気にしないで。それとも、女の子相手じゃやる気になれない?」
「……言い出したら聞かないのは高町家の血ですか?」
そうかもね、と舌を出して。美由希が身構える。
後ろ髪を引かれる感覚が拭えないが仕方が無い。周囲に誰かいないか気を配りつつ、ポケットに忍ばせていた恩師の遺産を抜く。魔力を循環させれば、タロットカードは小振りの杖へ変わる。
片手での運用を前提に設計された破格の高性能ストレージデバイス。
「可愛い杖だね。フェイトちゃんのとは大違いだ」
「あの子のは特別ですよ。僕のやなのはのデバイスが標準的です」
片足を引き、前傾姿勢。意識を組み替え、集中力を一気に研ぐ。
結界を使った自己鍛錬は、どうやらできそうにない。代わりに魔力の補助無しでの運動が思い切りできそうだと、クロノは美由希の間合いを読みながら感じた。
☆
終わってみれば、良い勝負だったと思う。互いに譲らず、有効打は一発も入らずだった。
「いや〜さすがフェイトちゃんのお兄ちゃん。凄いね」
ベンチに座って、身体を休める。美由希が持参していた予備のタオルを貸してもらえたので、汗を吸って濡れ鼠のようになった黒髪を拭く事ができた。
「いえ。驚かされたのはこちらの方です。話には聞いていましたが、これほどとは思いませんでした」
「侮ってた?」
「正直に言えば、少し」
「じゃ、鼻は明かせたかな?」
「思い切りですね」
美由希は嬉しそうに眼を細めて微笑む。
魔法技術の無い平穏無事な管理外世界の人間、それも十代後半の少女が、魔導師ランクSまで後一歩に迫っている現職の執務官を相手に接近戦で互角の模擬戦を行った。これはとんでもない事だ。勿論生身の彼女に合わせて、身体強化等の基礎魔法は使っていない。あくまでも人として備わり、今日まで鍛えて来た運動能力のみで勝負をした。
驚かざるを得ない。この世界で普通に暮らしてゆくには、美由希の身体能力は不要なレベルだ。これだけの技術を得るには相応の努力と才能が必要だが、苦心の末に鍛えても発揮する場が、この世界には殆ど無い。アンダーグラウンド的な場所でなら真価を振るうかもしれないが、美由希が自ら進んでそんな世界と関わりを持とうとしているようにも、当然だが見えないし思えなかった。
一種のスポーツ感覚なのかもしれない。少々物騒なスポーツになっている気もするが。
近くの自販機で缶のスポーツドリンクを二本買う。良い運動ができたお礼ですと言って渡すと、美由希は財布を忘れて来ていたらしく、二つ返事で受け取ってくれた。
「クロノ君、歳いくつだっけ」
出し抜けに、美由希が言った。
「一五です」
「じゃ、エイミィより二つ下なんだ」
「ええ。だから良く弟扱いされています。一応僕が上司で、彼女が部下なんですが」
「らしいね。今までは姉弟みたいな関係だよ〜って聞いてたけど、みたいってどういう事だろうって、割と素朴な疑問でした」
エイミィらしいアバウトで大雑把な説明だと苦笑する。
「エイミィとは良く時間合わせて遊んだりしてるんだけどさ。その時、クロノ君の事が話題に出るんだ」
「……何となく想像できます」
彼女達ぐらいの女性達がどんな話で盛り上がるのかは、どれだけ知識を巡らせても想像もできない。しかし、自分を話題に上げるエイミィは簡単に推察できる。身長が伸び始めて生意気だ〜とか。
「付き合い長いもんね。もう十年近くなんだっけ?」
そう。もうそれだけの年月が自分と彼女の間で経っている。
「そういう関係が変わるの、怖い?」
背中を丸め、大腿に頬杖をついて。下から覗き込むような姿勢になった美由希が問うて来る。長く細やかな睫毛が、大きな瞳が瞬きをする度に揺れ、クロノの嗅覚に全く知らない女性の香りを与える。
どきりと心臓が騒がないはずがない。それよりも、クロノは彼女がこちらの事情を察している事に眼を眇める。
「エイミィの奴、そこまで喋っているんですか?」
「そりゃもう。メールで振られた〜って」
そこはプライベートな事なので咎めるつもりはないが、さりとて良い気分はしなかった。
溜息をつき。スポーツドリンクの缶を煽る。
「怖くはありません」
「じゃあ……どうして?」
──エイミィを、受け入れないのか。
受け入れて、今のこの距離が変わってしまうのが怖くはない。
ただ、難しいのだ。
何故難しいのか。
今のこの関係が──姉弟のような関係を望む自分がいる。
父は顔も声も殆ど覚えていない。愛情を最も欲した時期に母から遠ざかった。その上兄弟のいないクロノが、恩師達以外にまともに触れ合ったはじめての人間が、エイミィ・リミエッタ。
「彼女には」
「うん」
「姉のような今の位置に……いて欲しいんです」
それが崩れてしまったら、大切な何かも崩れてしまう。
エイミィに対する自分の気持ちが分からなかったのは、彼女との今のような環境が自分にとって当たり前で、常識になっていたから。それが無くなるのが、想像もできないからだ。
今のままが良い。
相手の願いは拒絶して。こちらの理想は押し付ける。酷い奴だと自嘲する。でも、この心地良さに身を委ねたいのは、自分だけだろうか。エイミィは違うだろうか。エイミィは本当に自分の事を異性として意識するようになったのだろうか。
ふとした疑問。でも、大切な疑問のはずだ。
「クロノ君はさ」
「はい」
自分勝手の臆病者と罵られる覚悟をして、クロノは彼女の瞳を見詰めて。
「すっごいシスコン?」
ずいっと上半身を乗り出した美由希の顔が、鼻先が掠めるところにまで接近する。エイミィともフェイトとも違う異性の気配。戸惑う心中が視線を彷徨わせた。剣士少女の白い首を汗が伝ってゆく。くっきりと浮かぶ鎖骨。肌とシャツの隙間から豊かな膨らみが見えた。
歯に衣着せぬ質問だったが、美由希の無防備過ぎる仕草に掻き乱されて腹を立てるどころではなかった。狙ってやっているのなら、なかなかの策士だ。
「別に直接的に姉を求める訳じゃありません」
「年上ばっかりだったんだっけ、職場で」
「僕より年下の子は、現場にはそういません。訓練校に行けばそれなりにいますが」
ふ〜んと興味も無さそうに鼻を鳴らした美由希が、空になったスポーツドリンクの缶を屑籠に放る。甲高い小さな金属音。見事なコントロール。
満足げに肯いた剣士少女は二本の小太刀型木刀を竹刀袋に納めた。
「じゃ、それエイミィに伝えてあげて。あの子も、きっと君と同じ気持ちだよ」
「エイミィも……?」
「男の子なんだから、ちゃんとエスコートしないと駄目だぞ、クロノ君。フェイトちゃんの事も含めてね」
そう言って、美由希は人差し指の先でこつんとクロノの額を小突き、麓まで競争して負けたらジュース一本ね〜とまたも勝手な賭けを切り出して、答えも聞かずに走り出す。
金を持っていない事を忘れているのか。はたまた負ける気が無いのか。とにかく追わねばとクロノも駆け出す。
エイミィとの事。フェイトとの事。今まで解決して来た数多の事件よりも進展の糸口を掴めずにいた問題は、何となくだが、出口が見えた気がした。
その6に続く。